「思考力」とは~なんのために必要なのか?
昨日初めての共通テストが終了した。これまでのセンター試験との違いは思考力、判断力、表現力を重視する試験になっという。
すでに高校では、「総合的な学習の時間」(2019年度の1年生からは「総合的な探求の時間」)という思考力を養うカリキュラムが組まれている。高校ではこの科目の指導はほかの科目と違ってなかなか大変なのではないかと推察する。
そもそも思考の前提として情報や知識が欠かせない。それらを組み合わせて、そこに自分や他人の経験値をブレンドして物事を考える力が、思考力ではないだろうか。
知識の詰め込みでなくなることは歓迎されるのだが、人間にとって大切な思考力はどういうものだろうか。
難しいことはさておき、大切なことは、人は1人で生きているのではなく、他の人と関わり合って生きていくということだ。そうしたときに真っ先に必要となる「思考力」とは、「人のことを思いやったり、気遣ったりすることに考えが及ぶ力」ということではないだろうか。
高い次元の話でなく誠に恐縮だが、例えば温泉旅館に行って露天風呂に入る時、時々浴槽の中に降りていく階段のところに腰をどっかりと下ろし、そこで露天風呂に浸かっている人がいる。
後から来た人は、その階段を降りていく時に、その人に遠慮して、階段ではないところから、すなわち段差があるところから露店風呂に入るか、もしくはその人の脇を恐る恐る通り抜けなければならない。
しかし無神経な人というのはいるもので、そうされてもなお自分が階段に座っていることに気づかない人がいる。
また高齢者に多いのだが、混んでいる時間帯のスーパーのレジで、金額が出てから初めてバッグから財布を取り出し、硬貨を1枚ずつレジのお皿に載せていく人もいる。
時間がかかることは仕方ないし、人は誰でも歳をとるものだから、それも含めてある程度は我慢できる。
しかし、せめてレジに並ぶ時から財布を出しておくとか、あらかじめ小銭がどのくらいあるかとか、そうしたことをあらかじめ準備することは、無理な要求とはいえないだろう。
歳をとったから何でも許されるわけではなく、社会の中で行くために生きていくために、最低限のマナーだとか思いやりということも必要なことに変わりはないと思う。
一方で、こんな高齢者の方もたまたま今日、お見かけした。
ホームセンターの中で探してる商品が見つからない時に声をかけていた年配の方は、店員にその場所へ案内してもらうと、何度も「ありがとう」と言って頭を下げていた。それも形式的にではなく、しっかりと相手を見て。
こうした時に、年齢に関係なく、中には「俺は客だ、教えてもらうのは当然だ」と言わんばかりに、お礼も言わないで、すぐさま商品に手を伸ばしパッケージに見入る人もいる。まずはお店の人にすぐにお礼を言う姿勢というのは、周りの若い人にも良い刺激になるし、見ていても気持ちのよいものだ。
これらは「思考力」という話では無いかもしれないけれども、やはり他の人を思いやったり、すぐにお礼が言えるというのは、普段から様々なことを経験し、自分の中で「こうしていこう」とか、「自分がこうしてもらったときにはとても気持ちが良かった」とか「だから自分も今度は人にそうしよう」とか、いろいろなことを考えながら生きているからではないだろうか。
共通テストが言うところの思考力とは多少次元が違うかもしれないが、高度な思考力を備える前に、まずはこうしたベーシックな思考力を身に付ける機会と言うのをぜひ設けてもらいたいものだ。
まだインターネットやスマートフォンやパソコンなどが一般家庭には普及していなかった時代に、社会人として過ごしてきたものにとって、大切なことは時機を失しないリアルの人とのコミュニケーションであった。電話であり直筆の手紙であり、顔を合わせての打ち合わせだった。
自動車メーカーのホンダでも、創業者の一人、本田宗一郎は「ワイガヤ」という文化を大切にしてきたという。ワイガヤとは部署や職位に関係なく、みんなで集まって、それこそワイワイガヤガヤと、忌憚のない意見をぶつけ合う議論をし、その中で新たなものを生み出していく手法であり、企業文化だ。
しかし時代が変わると、メールやSNSの活用、インターネットによる検索や、各種ホームページや動画などによって、直接人と顔を合わせたなくても、いろいろな情報を得られることになったり、自分の考えを発信したり(まあ、このブログもその端くれですが)や人の考えを得る機会が増えた。もちろん、これはこれで大切なことであるし良くなった面もあることは否めない。
しかし本当の意味での議論と言うのは少なくなってきたように思う。
まして現在のように新型コロナウィルスの影響を被っている中にあっては、なおさらリアルのコミニケーションの機会が減ってしまう。今が普通で、メールや遠隔会議システムや、グーグルフォームなどの便利なツールによって、全てが事足りてしまうと考えることの怖さだ。
大学では昨年来、遠隔事業に頼らざるを得ない状況が続いていると言う。しかし夏を超えてからリアルの授業を取り入れた大学の中で、学生の反応は2つに分かれていると聞く。
1つはリアルの授業よりも遠隔授業の方が通学の時間もなく、友達とのコミニケーションや気遣いも不要であるため、できれば遠隔授業にしてほしいと言う声と、遠隔授業では物足りないし、学んでいる気がしない、実際に大学に行って仲間と顔合わせ、講義を聞いてみたい、あるいはゼミ活動をしたいという声だ。.
学費や設備費返還について学生の間から声が上がったことは記憶に新しい。
以前は、つまりコロナの前は、こんな2つに声が分かれることはなかった。
全てがリアルの授業しかなかったからだ。
今の大きな懸念は、人とのリアルの接触が減っている、あるいは減らさざるを得ない状況ということを理解しつつも、そしてこれが全てではなく、リアルなコミニケーションが不足しているということを認識を持てるかだ。
状況が改善したならば、生身の人間同士のコミニュケーションをとることを心がけるような、そうした考え方--これも思考力といってもいいのかもしれないがーーを自分がしているかを再度、確認してみることが必要かもしれない。
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