50代からの車選びとライフスタイル研究所

このサイトでは50代以上の方を対象とし、車選びとライフスタイルについて参考になりそうな情報をお伝えしていきます。運転歴30年以上で軽自動車からワンボックスまで9台を乗り継いできました。50代、60代ともなりますと車の選び方や働き方、日々の生活も変わってきます。人生100年時代ともいわれる成熟の世代を楽しく生きるための車情報や、ライフスタイル情報をさまざまな手段で収集し、まとめていきたいと思います。

【雑記帳】歴史逍遥~鎌倉時代編②

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2/28の記事「鎌倉時代編①」の続きです。

 

鎌倉時代のエポックメイキングな出来事といえば、なんといっても元寇、蒙古襲来でしょう。のちの「神風が吹いた」といわれるのは、これらの戦いに由来します。

詳しくは最後に掲げた参考文献のあとに貼ったサイト「元寇文永の役弘安の役)は実際どんな戦いだった? 神風は吹いたん?」をご覧ください。

私がみたなかでも一番詳しいです。

 

ここでは私が着目した点を中心に書きます。

 

文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)という二つの戦いなのですが、暴風雨が吹いて元の船が沈んで大損害を被った、というのは後者の弘安の役のほうです。今から740年くらい前のことですから、今と多少、季節は異なるかもしれませんが、季節は夏、台風シーズンだったと思われます。

 

暴風雨によって、間隔を空けていなかった味方の船同士が衝突して沈んだ、ということもあったようですし、戦いが終わってしばらくしてからも元のものと思われる船の残骸が日本の沿岸に流れ着いた、ともいわれています。

 

文永の役はどうして日本が勝てたのか、ということですが、3万といわれる軍勢が一枚岩ではなく、内部対立や戦による損害などから引き揚げたということです。

 

しかし日本にとって当時の大国・モンゴル帝国相手の戦いは苦戦しました。

 

まず日本は「我こそは・・・」と名乗りを上げて、それから両軍相まみれるという戦いです。しかし、元はそんなことはしてくれません。ドラや太鼓を打ち鳴らし、毒を塗った矢や火薬を込めた武器などで攻撃してきました。

 

ドラなどの鳴り物に、馬が驚いたといいます。それが計算づくだったかどうかはわかりません。一騎打ちを得意とする御家人たちにとって、集団で一気呵成にやってくる異国の軍隊を迎えうつことは、さぞや大変だったことだろうと思います。

ただ、弓矢の「矢」は、日本のほうが殺傷能力が高かったようです。

集団戦を得意とする元に対し、個対個の場面では、日本の武士のほうに利があったことでしょう。

 

日本は元の襲来を予測できていました。使者がその前にやってきて、「属国になれ」と言ってきたからです。当時の幕府が、どこまで相手の規模や戦力をわかっていたかはなんともいえませんが、まあ、断るよりほかに回答はありませんでした。

実際は断ったというより、執権・北条時宗は要求を無視してきたわけです。

 

そして実際に襲来を受け、文永の役を経験したことで、「次」を想定します。

防塁という石垣を海岸沿いに張り巡らして、上陸を防ごうというわけです。

 

そして弘安の役では、なんと14万もの軍勢を元は送りこんできました。

対馬などでは上陸を許したものの、博多湾沿いの防塁は効果があったようです。

文永の役のときのように、容易には上陸できませんでした。

それになにせ14万もいるわけですから(正確には2つの艦隊に分かれており、合流までには時間がかかったようです)、指揮命令系統はかなり適当だったのではないかと思います。

 

元の兵士たちは、昼間は戦闘を行い、夜間は博多湾に停泊中の船に引き上げるほかはないわけです。そして、ここで暴風雨にあったわけですから、被害甚大になります。

確かに暴風雨の効果は絶大だったかと思いますが、容易に上陸させずに、防塁等によって海上に封じ込めておけた、という前提がなければ、この結果はなかったと思います。

 

御家人個人事業主

この二つの元との闘いは、相手が外国だったという点と、もう一つ、国内の合戦と決定的に異なる点がありました。

 

それは、戦で勝利しても、恩賞によって領地が増えることはなかった、という点です。

今風にいうと、後払いの業務委託契約(御恩と奉公)でした。

 

つまり戦に向かう交通費も食費も宿泊費もすべて御家人持ちで、ともかく戦いで功績を残し、それに対して領地を分け与えてもらい、エリアが拡大したことによる売り上げ増で、先の経費部分をカバーしていく、というやり方だったのです。

 

戦勝しても相手から奪いとる土地がなかった文永、弘安の二つの戦いに働きに報いることは、当時の為政者にとって大変苦労したようです。

結論としては、経費はかさんだが、それをまかなう利益はあげられない、という状態です。

 

そもそも土地も分割相続の時代でしたから、代が変わるたびに、所領は小さくなり、御家人の生活は苦しくなっていくシステムでした。

さらに幕府が御家人たちの協力を得ながら治めていく執権政治から、独裁的な専制政治に移行していったこともあり、さまざまな不満が鬱積していきます。

そして最後は、後醍醐天皇幕府打倒計画が、幕府へ反感を抱く有力御家人の協力もあって成功し、鎌倉幕府は幕を閉じます。

 

こうしてみていくと、蒙古襲来が間接的に鎌倉幕府滅亡につながったといえます。

せっかく手を尽くして日本を守ったのに、それが報われなかった幕府。

私としては、北条家の家督を継ぐ得宗政治=専制政治に移行したことが、滅亡を早めたように思います。

 

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

 

<参考文献・動画・サイト>

・『もういちど読む山川日本史』(山川出版社

・『一度よんだら絶対に忘れない日本史の教科書』(SBクリエイティブ山崎圭一著)

・『この一冊で日本の歴史がわかる!』(三笠書房、小和田哲夫著)

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