【雑記帳】歴史逍遥~鎌倉時代編①
アウトプットしないと身に付かないーーということで早速、自身で学んだことを、このブログのスタイルで書き起こしてみたいと思います。
逍遥とは「ぶらぶら歩き」。ブラタモリみたいなものです。
「封建的」という言葉について
こういう言い方をしますよね。高圧的な態度で接するようなさまを表します。
確かに主従関係ではありますが、主も従も相互に義務を負っているところがミソです。
御家人は「奉公」する代わりに、主君=将軍は「御恩」を与えるというものです。
いうなれば、今の労使関係みたいなものです。役務を提供する代わりに、給料をもらう。ただ鎌倉時代の役務の提供というのが、京都や鎌倉の防衛業務だったということかと思います。
父と娘の関係について
源頼朝亡き後、頼家が継ぎますが、どうも人望がなかったようで、将軍の権威が次第に衰え、一方で頼朝の妻・北条政子の父である北条時政が実権を握ります。
時政は頼家を引退させて、弟の実朝を将軍にたてました。
おじいさんが孫の人事を操ったということです。
横道にそれますが、そもそも頼朝と政子が出会ったのは、頼朝が伊豆に島流しになっていたときに出会ったのです。まだ平家が幅をきかせている時代でしたので、父・時政は別れるように仕向けたのですが、政子が応じず、しぶしぶ結婚を認めたという経緯があります。
話を戻します。北条時政はこのとき、政所(まんどころ)の長官におさまっており、政治の実権を握って「執権」といわれるようになりました。
時政は、次第に邪魔になったのか、実朝も引退に追い込もうとします。
それに待ったをかけたのが政子です。そして政子は父・時政を逆に引退に追いやりました。父と娘の揉め事というと、なんとなく大塚家具の一件を思い出します。
幕府は幕府でも・・・
ところで鎌倉幕府というと、なんとなく江戸幕府のような印象がありますが、決定的に違うのは、鎌倉時代というのは朝廷の仕組みも生きており、よくいえば幕府と朝廷が協働で、日本を統治しているようなスタイルでした。
江戸時代のように江戸幕府が掌握して統治している、というのとは異なります。
鎌倉幕府の役割は基本的に「治安維持」にありました。
頼朝が就任した征夷大将軍というポストも、「朝廷の敵を討つ将軍」という意味です。
スピーチのチカラ
こうした微妙なコラボ状態の中、次第に幕府が力を増し、一方で朝廷が弱体化していくことを看過できず、朝廷の復権を狙ったのが、後鳥羽上皇です。
後鳥羽上皇は、源実朝を優遇し、自分の影響力を行使しようとしました。
しかし、その実朝はなんと兄・頼家の子、つまりは甥っ子に暗殺されてしまうのです。
これを機に、実権が北条義時に移ると後鳥羽上皇が動きます。幕府討伐の命です。
義時を滅ぼすために挙兵するのです。これが「承久の乱」です。
後鳥羽上皇には次のような目算がありました。
・天皇につながる家系である源氏の血が途絶えた以上、単なる武家政権である
・将軍の家臣である御家人たちは北条氏とは主従関係にない
・御家人たちは北条を見限り、自分の支持にまわる
・朝廷にさからう御家人などいないだろう
実際に御家人たちは後鳥羽上皇に逆らうわけにはいかない、という雰囲気がありました。しかし、これを阻止したのが北条政子、そのときは尼将軍といわれていました。
後鳥羽上皇にしても計算外だったのが、政子の御家人たちに対する、今風に言えばスピーチです。
「頼朝殿の恩は山よりも高く、海よりも深い。朝廷側につこうと思う者はまず、私を斬ってから行くがよい」。
「山よりも高く、海よりも深い」というのは、この政子の演説に由来するものだったのですね。このスピーチに感銘を受けた御家人たちは鎌倉幕府に忠誠を誓い、朝廷軍をやっつけたわけです。また、政子は、上皇たちは藤原秀康らに騙されている、として討つべき相手は藤原秀康らだとして、御家人たちに朝敵になるわけではない、と諭しました。
このスピーチは内容もともかく、タイミングも大切でした。
後鳥羽上皇の挙兵の動きを察知した者がいち早く、幕府方に伝えました。上皇側も東国の武士らを味方につけるための密使を放っていましたが、遅れをとったというわけです。
情報の速さと、名演説によって東国の武士たちは幕府を裏切ることなく、上皇の院宣(上皇の意思を示す文書)によって挙兵した西国を中心とした武士集団を打ち破りました。
本日は私の歴史の勉強のアウトプットにお付き合いくださり、ありがとうございました。
<参考文献>
・『もういちど読む山川日本史』(山川出版社)
・『一度よんだら絶対に忘れない日本史の教科書』(SBクリエイティブ、山崎圭一著)
・『この一冊で日本の歴史がわかる!』(三笠書房、小和田哲夫著)